MEMORIES 〜おもひで〜 

 昭和33年度

Episode 1 :Wind of Season   Long long ago...

 私が中学2年の時(昭和31年)富士地区では最初ではないかと思いますが、吉原一中にブラスバンドが誕生しました。
 翌年の10月に静岡国体が始まり、吉原の体育館が卓球の会場になり、昭和天皇、皇后が見えられるという事で吉原の町は賑わい、沿道には年寄りが大勢ゴザ等に座り、小旗を振っていた姿が目に焼き付いてしばらくはなれませんでした。卓球会場の入口に我々部員は整列し、“君が代 ”を演奏しながら、1メートル位手前を天皇、皇后が、手を振りながら通り過ぎるのを、一生懸命クラリネットを吹きながら見ていたものです。
 その当時の部員の大部分が、翌年の4月(昭和33年)に富士高に入学しました。秋山忠信、芦沢崇浩,飯島孝彰、小林敏之(逝去)、斉藤進、佐藤和也、の面々です。
 我々が入学した当時は、先輩数名による軽音楽の同好会が存在していました。先輩の中に吉原一中出身の池田勝治さんがいました。トランペットが大好きな方で、予餞会の時に私と二人で“真夜中のブルース”と“小さい花”を演奏した記憶があります。
 池田さんと秋山と私達とで、ブラスバンド部をつくろうではないかという話になり、それから少しずつ、創部への活動がはじまりました。

by 佐藤 和也

Episode 2 :Step to Wind

 諸先輩方の協力も得て活動を開始し、雑音が校内に流れ始めるとそれとなく人が集まってきました。吉原一中出身の紺野希望(逝去)、鈴木匡、富士中出身の望月達(旧姓野田),望月武夫、鷹岡中出身の大石正進、富士宮の遠藤図士彦君がメンバーに加わり、人数だけは揃ったものの楽器が少なくて、頭を抱えてしまいました。
 中学の時に部長(名ばかりの部長、先生が全部やってくれていた)をしていた事もあって、私が中学のブラバンの宮尾妙子先生(旧姓草分)の所へ相談に行く事になりました。吉原のあけぼの幼稚園の園長先生の娘さんで、音楽に情熱をもった、とても指導熱心な、大好きな先生でした。
 体育祭に備えての楽器を貸してもらえないかの相談です。無理だとは思っていたのですが、以外にも承諾してくれたのです。体育祭を控えた何日か前に秋山君と二人で、バス、バリトン、アルト、トロンボーン、その他いくつかの楽器をリヤカーに積んで、潤井川の土手を夕焼けの空を眺めながら、オッチラ、オッチラと運んできた記憶が今でもはっきりと頭に浮かんできます。
 それからは皆で猛練習です。行進曲のほとんどは中学で演奏したものでした。“君が代行進曲”“軍艦マーチ”“錨をあげて”等です。吉原一中のブラバンの出身者が半数以上でしたので、すぐになんとか聞ける状態になりました。あとは校歌と応援歌を練習して、体育祭に臨んだのです。富士高でも初めての出来事でしたので、注目を浴びたように思えました。体育祭の終わった後、皆でピカール(金属楽器磨き)をつけて楽器をピカピカに磨いて返しました。
 体育祭での活躍が認められて、校長先生がP.T.A等に働きかけて寄付を集めてくれた様です。その辺の細かいいきさつについては余りわかりませんでしたが、大変な苦労だったのではないかと思います。その結果、楽器が少しずつ揃ってきまして、ブラスバンド部が誕生したしだいです。

by 佐藤 和也

Episode 3 :Feel the Wind  

 誕生してしまうと、やれやれという感じなのか、その後の事については余りよく覚えていない。断片的にしか思いだせないのです。
 野球部と応援団の人達が大変喜んでくれた事、富嶽祭で演奏した事(曲目は記憶になし)、夏休み、プールの近くの教室で練習して、休憩時間にプールに飛び込んで遊んだ事、トラックの荷台に楽器と共に部員も乗り込み上からシートをかけて、草薙の球場へ野球の応援に行った事等、さもない事で感動していました。
 又、何人かの人達とは、時々会う機会がありますが、卒業以来お会いしていない指揮をしてくれた佐野文男先輩、野球の応援に特に熱心だったトランペットの小玉剛先輩、ブラバンに協力的だった応援団長の山本さん。懐かしく時々思いだされます。
 熱心にやりすぎて、抜ける事もままならず三年生の終わり迄やってしまい、クラリネットは少々うまくなったものの、勉学の方は少し疎かになり、後悔しているしだいですが、そのかわり、良い友達が大勢出来た事、何よりも変えがたい宝物だと思っています。
 今後の富士高ブラスバンド部の増々の発展を心より期待して、筆を置きたいと思います。

by 佐藤 和也

 昭和34年度

ブラバン草創期のこと(部昇格当時のエピソード)

 富士高ブラスバンドが同好会として出来た頃、その頃は同好会でしたので、まだ大勢の部員は、他の「部」と掛け持ちでした。同時に2つの「部」には入れませんでしたが、ブラスバンドは同好会の、そのまた準備会のような存在でしたので、どこかの「部」と「同好会」の両方へ入れたのです。私は、卓球部に所属し、そのころの先輩からの激しい「いじめ」に似た特訓に耐えていました。
 ところが、ブラバンがいよいよ本格的に部として正式に存在することになり、それまでバラバラに入っていた部活動をやめて、全員ブラバンに来るようにという話になり、私も卓球部のキャプテンに退部を申し入れることになりました。ところが、当時の運動部では、退部する時には、相当なリンチを受けなければ簡単に辞めさせてくれませんでした。 当然私もその制裁を覚悟しましたが、一人の先輩が、事情が事情だからそのような制裁はおかしい、と言ってくれて、みんなで私をプールに投げ込むことで勘弁してくれました。当時、部室の前にプールがあったのです。プールに投げ込まれる時、皆が「ブラバンでも頑張れよ」と言ってくれたのを覚えています。私は、あまり演奏が上手ではなく、皆に迷惑ばかりかけていましたが、楽しくいろいろな曲を演奏したことを昨日のことのように覚えています。
 私は、今、新橋のオフィスにいますので、たいていの週末は新橋で飲んでいます。大体は、烏森通りの「初島」で飲んでいますので、その辺りで飲んでいる人は寄ってみて下さい。

by 鈴木 匡(35年卒)

 昭和49年度

富嶽祭

昭和49年の富嶽祭で、キャバレーを演奏しました。当時一年生だった私達は、男子生徒は全員女装をして、にこやかに踊ったのを覚えています。 青雲寮の一階の一番大きい部屋は、まだ畳敷きで、根太板を軋ませながら、踊りの練習をしました。練習し過ぎて身延線の最終に乗り遅れ、深沢行夫君(サックス)とタクシー相乗りで帰宅したのが、現在に至る付き合いのはじめです。

by 佐野則道

吹奏楽コンクール

小編成の部に初出場。富士高吹奏楽部が公の場、衆目の下に演奏した初めてのステージ、大いなる第一歩を踏み出した記念すべき足跡です。

思い出いろいろ (投稿) 2001.02.01

 ヒストリー楽しく読ませていただきました。昭和48年度から50年度に在籍した、トロンボーンをしていた佐野徹です。思い出の渚は、確かに当時のブラバンの愛唱歌でしたし、青雲寮の思い出はつきません。49年に小編成の部で初めてコンクールに出場し、県大会で浜松まで行きました。翌年、3年生は既に引退していましたが、常葉一雄・佐野日出男・私の3名が受験勉強も顧みず練習に参加し、出場しました。
 野球部の屋内練習場の話がありましたが、私が在籍した当時は、鉄工場で、ブラバンの練習に張り合うかのように音を出していたと記憶しています。
 又、何か思いついたら投稿します。

by 高28回卒 佐野 徹

 昭和50年度

バス遠足

昭和50年の新歓バス旅行は、箱根方面に行きました。ほとんど旅程らしい物を立てずに出発し、行き当たりばったりで、運転手さん、ガイドさんと行き先を相談しながら、目的地を決めて廻りました。しかしそのため、私の存在は当日全行程で無くてはならないものとなり、次の年のような悲劇は、避けられました。
そして悲劇が起こったのは昭和51年の新歓バス旅行の帰路・・・。 部長の道満君を忘れて現地を出発してしまい、置き去りにされた彼は、電車でかえってきました。

by 佐野則道

 昭和51年度

バス遠足

「自己紹介大会」「出身お姉さん」「お下劣歌合戦」などアトラクションには事欠かない古き良き(?)時代でした。

当時のスタンダードナンバー  
 「金太の大冒険」「吉田松陰の唄」「お万の方」「青い山脈」「ゲロ喰い女」・・・等々。 なんと言っても最高のシンガーは、佐野壮一先輩でした。当コーナー担当者も一度(野球応援バスの中で)直接聞いたことがあります。 この時、「ゲロ喰い女」を聞いた女子部員は皆、悲鳴を上げ、バスの揺れも手伝って本当にエチケット袋の世話になりそうになりました。
 そして、いつでも、トリを飾るのは「想い出の渚」・・・ブラバンのテーマソングとして代々歌い継がれ、何か大事な場面では絶対に欠かせない曲でした。あの美しいメロディをみんなで大合唱したものです。バスが富士市内に入ると、タイミングを計って「おもなぎ」で最後の盛り上がり、そして部長の挨拶「お家に帰るまでが旅行ですから、、、」とキッチリ締めた頃に、バスが富士高前に到着する、という按配でした。あのスケジュール管理能力の高さは、今思うと凄い!!

アンサンブルコンテスト

5チームが出場し、クラリネット2チームが金賞受賞。うち1チームは富士地区唯一の東海大会出場を果たす。 富士高史上最高のクラリネット黄金時代の到来でした。

 昭和52年度

バス遠足

幾度となく繰り返される自己紹介大会、歌合戦、隠し芸の強要、公衆の面前での富士高体操やフォークダンス…。 県下屈指の進学校に大いなる夢と希望を抱いて入って来た1年生にとって、 カルチャーショックと呼ぶにはあまりにも残酷な狂気の一日です。

 昭和53年度

バス遠足

雨天のため屋内休憩場にて食事、幕間の演芸コーナーで、UFO、サウスポー、富士高体操が一般聴衆に大人気を博し、観客動員数においても天才バカボンショー、杉山兄弟シャボン玉ショーを凌ぐ。

野球応援

恒例であった7回攻撃時の、1年男子によるチアボーイショー「キャバレー」が全国紙に写真入り掲載。 しかし、チーム強化の進んだ翌年、三村監督の懇願に屈して中止。この年のステージが最後にして最大の舞台となる。

榛名サマーミュージックスクール 1978

 全日本学校バンド連盟と、(財)日本国民音楽振興財団が、文部省などの後援を得て主催していた、全国の高校生を対象としたバンドスクール。4泊5日のスケジュールの中で、A.キューネル氏、藤田玄播氏など錚々たる顔ぶれを講師陣に招いた、多彩なカリキュラムでした。
 確かな記録は残っていませんが、昭和50年前後から、富士高から参加する人が急速に増え、この年にはなんと、1,2年生を合わせて30名弱が参加する異常現象。全国の若きバンドピープル達に混じり、妙に押しの強い?団体でした。大挙して押し掛けた成果が、その後の演奏会等に大きな影響を与えたのは言うまでもない・・・?

 昭和54年度

バス遠足

 ヤングマンや富士高体操の演技に、サーキットコース脇は鈴なりのギャラリーで埋まる。毎年のように繰り広げられる狂乱のカーニバルは、当時のバス会社でも有名になっており、運転手さんから「あれやって!」とリクエストがあったほどでした。
 なんせ、バスに乗るや否や、「運転手は○○、ガイドは××・・・」とバスガイドさんの挨拶が終わる頃にはマイクテストが始まり、終日騒ぎ続けてる訳ですから・・・。伊豆箱根鉄道のバスガイドさんが、社歌?を唄えず、私たちが教えて上げたことがありました。「あーなたーとぉ、わたしのー、いーずはーこ〜ねぇ〜」。また、現場には居合わせませんでしたが、テーマソングのなかった富士急行には「なら、作って上げよう」と、富士急行の歌「バスーに乗るなら富士急行、富士急行にぃ、き、め、た!」を無理矢理作って贈呈した。・・・と言う伝説と共に、この歌も長い間歌い続けられましたね。苦笑する乗務員さんの表情が今も忘れられません。

吹奏楽コンクール

野球部が夏の甲子園初出場、初戦日程が吹奏楽コンクールと重なり、学校側との丁丁発止の抗争も空しく出場を断念。予定していた課題曲は「フェリスタス」自由曲は「聖歌と祭り」

 昭和55年度

コンクール

私の高校生活の思い出のほとんどが、青雲寮のことです。
中でも、一番思い出に残っているのは、1年生の時、初心者だった私は、コンクールのメンバーに入れず、隣の野球部の雨天練習場で、夏休み中ずっと基礎練習をしていたことです。
隣から、合奏の音が響いてくる中、私ともうひとり、たった二人であの雨天練習場にいました。ちょっと取り残されている寂しさを、胸にしまって、早く仲間に入れてもらえるようにがんばっていた日々が、可愛らしくもあり、甘酸っぱい思い出です。

by 長谷川 恵

現役時代の思い出 volume.1  

 私は富士高吹奏楽部のオーボエ第1号です。昭和55年の春のことです。パート決めの時に「オーボエをやりたいです」と言ったら「楽器がないから他のパートにして」と言われたのを憶えています。(確かひとつ上のフルートの渡辺博義さんだったはずです)私は楽器を持っての入部でしたから、当時としては大変珍しかったと思います。
 富嶽祭では何かの手違いからプログラムの部員名簿から自分の名前が漏れてしまい、応急処置として、小さいわら半紙に”追加” OBOE @宮川真人(岳陽中)と書いたものをプログラムに挟み、間に合わせたのでありました。この紙は今でもプログラムに貼り付けて保管しています。
 さて、私の入部以前はソプラノサックスでオーボエパートを演奏していましたね。今思い返せば、inCの譜面をinBに書き換えたりせず、そのまま読みかえて吹いていたのには驚きました。その後、OB会でお金を集めてオーボエを買ってもらいました。ソプラノサックスのひとつ上の先輩、福西利香さんが中学の時オーボエをやっていたのでオーボエにまわり、一気にオーボエ奏者が二人になりました。そんなわけでオーボエとサックスは同じ部屋(青雲寮を入ってすぐ左の畳の部屋)で練習することになり、オーボエ&サックスというくくりになったのです。しかし楽器を持っているとはいえ、初心者の私はその年のコンクールには出させてもらえませんでした。
 「二枚舌パートを作りたい」・・・これは、昭和50年代、我が部の大きな野望の一つでしたが、楽器そのものの特異性から、何しろ楽器が高価なこと、そして経験者や指導者が不足しているという大命題が常にネックとなり、長らく実現できずにいました。昭和54年度、野球部の甲子園出場の際も、どさくさに紛れてバストロやファゴット、オーボエを楽器購入リストに書き込みましたが、「これは、どういう楽器なんだ。本当に野球応援に必要なのか?」という学校側の追求から逃れられず、結局2本のスーザホンに化けてしまった経緯があります。
 当時、歴代の3年生が卒業記念に新しい楽器などを寄贈していく慣習がありまして(例えば、当時だとバリサクやバスドラがそうです)オーボエは昭和55年度卒業生による物です。そして、それは他でもなく、宮川君が入部し、1つ上に経験者の福西さんがいる。そう、楽器と奏者が各代に1人ずついれば、まずはパートとして成立する。この千載一遇のチャンスゆえに取られた判断だったのです。実は、彼が入部する以前から「富士響の宮川さんの息子さんが入学するらしい」「何とかしたいねー」といった会話が、3年生の間では交わされていました。彼らは、常葉一雄氏を介して佐野日出男氏に連絡を取り、知人のオーボエ奏者にも相談しながら予算内で賄える楽器を探し出して貰いました。こうして、富士高オーボエパートは誕生したのです。
             (・・・ちょっと、カッコつけすぎ?)
 1年生の時の強烈な思い出といえば、男女が別日程でしたが、生活館での合宿ですね。夏休みに入った頃だったと思います。夜は音が出せないので、体育館でバレーボールをしたりして、合宿とは名ばかり。まったくのレクレーション大会でしたけどね。
 それにしても恒例の「検査」にはビビリましたねえ。風呂に入る前の”病気検査”ということで、1年生の野郎全員がひとつの部屋に集められます。強い塩素の臭いのする部屋でした。「医学部に行っているOBの○○先輩だ」と白衣の人が紹介され、全員が後ろ向きに正座させられ待機します。「これから検査をするから、ひとりずつこっちに来て指示に従うように」と言われるのですが、最初は誰も行きません。「誰かいないか」との先輩の呼びかけに、シーンとする俺達。「どうせみんなやるんだ。誰からでも同じだろ」と催促の声。しばらく静まりかえる中で、突然一人が「では先輩お願いします!」と申し出たのです。俺はなんて勇気のある奴だと思いましたよ。さあいよいよ検査開始です。OBの先輩の「じゃあ脱いで」と言う声とともにベルトを外す音。「この薬をこう使ってさ・・・」と言う声やカチャカチャという器具を使う音。「これでいいですか?」とか「まだですか?」という友達の声。俺の想像力はドンドンたくましくなっていきます。「よし、次」「ありがとうございました」というやりとりのあと、ぴちゃぴちゃという洗面器で手を洗う音。そんな調子で何人かが検査を終えて行きました。俺の順番はもう少しに迫っていて、自分のすぐ後ろで行われている光景を想像すると、もうドキドキです。そしてある奴(誰か忘れましたが、重松だったかなあ)の順番となり、そいつが今やパンツを下ろそうかという瞬間に、先輩達がどっと部屋になだれ込んで来るという結末に終わるのですが、実はこれらは全て仕組まれていたんですね。

1.強烈な塩素の臭いがしたのは、プールからパクって来た固形の塩素を、事前に柱や壁などにこすり付けていたから。
2.医学部の先輩というのは嘘。OBの先輩でしたが、少なくともこの時は医学部生ではなかったと記憶しております。どなただったかは忘れました。それ以前、本当に医学部生の先輩がいらっしゃったことがあったのでしょうか。
3.最初に「先輩お願いします!」と申し出た奴はサクラ。次からの奴には「これは嘘だ。適当に演技してくれ」という紙が差し出され、それっぽい演技をして他の奴らを騙すという仕掛け。従って、ターゲットの奴にはその紙は見せない。

 いやはや、検査の最中、私はマジでチ○ポを出さなきゃいけないのかと思ってビビリまくっていましたよ。そして、絶対来年もやってやろうと決意しました。
 翌朝、腕や腹、おでこなどに”百恵命”とか”○○ちゃん命””悪”あるいは髭などを、マジックで書かれている奴が何人かいて、その日はそのまま練習をしていたことも付け加えておきましょう。
 月日は流れ、我々が2年生(昭和56年)の夏に初めて大編成で県大会出場を果たしました。その時のエピソードをひとつ。コンクール当日、富士宮で行われる県大会に行くために、青雲寮のうらで楽器を運び込んでいたときのこと。体育の石川先生に会ったときの会話です。
    石川:「おうっ、なんだ今日ブラバンは試合か?」
    俺達:「えっ、ええ、まあそんなところですが・・・これから県大会です」
    石川:「そうか、今年のブラバンは強いのか?」
    俺達:「強いって言うか何というか、その・・・・」
 それから前述の合宿はこの年を持って終了したのでありました。あの「検査」が原因かどうかは不明ですが。
 いやぁ、この時は楽しかったですネェ。この頃はOB諸兄も沢山遊びに来てくれましたし、とにかく盛り上がりましたよね。昼間の練習を終えて女子部員が帰ると、夜中まで想像を絶するバカなことばかりやってましたが、特に「病気検査」と「死刑ごっこ」は当時の定番でした。
 白衣は生物部かどこかの部室から拝借してきた青雲寮の備品で、新入生の勧誘の時にも良く利用されていた必須アイテムの一つでした。(この件は、またご紹介します。)
 それから、最初に申し出た「勇気ある1年生」は、恐らく予め抱き込まれていた「サクラ」で、つまり、同じ1年生男子の中では(言い方は悪いけど)裏切り者ということになりますね・・・。(^^;;;
 そして、宮川氏が紹介してくれた昭和55年度夏季合宿の医学生役は、確か現イルチンポ、じゃなかった(笑)イ○ポン○マスターのH山氏だったような記憶があります。当時から役者でしたねぇ。・・・違ったかな?

by 宮川 真人

 昭和56年度

富嶽祭

いつの頃からか富嶽祭の定番となっていたアンコールの演目「ジーザスクライストスーパースター」と「栄光への脱出」・・・。前年度に「ジーザス・・・」を第2部に演奏、恒例を崩したのを皮切りに、この年には「栄光・・・」のみを演奏。以降、この二曲が演奏されることはなかった。 おセンチになりがちの富嶽祭だけに、「いい日旅立ち」や「エルザの大聖堂への・・・」などが複数年連続して演奏されることもあったが、10年近くも同じ二曲が「定番」として君臨した例はなく、この歴史がついえたのは、オールドファンには寂しい現実だったかも知れず、惜しむ声も多く聞かれた・・・。

現役時代の思い出 volume.2  

 高原教室に青雲寮の玄関の看板(表札?)を持って、至仏山に登るというのは当時は伝統というか、先輩からの命令でした。ところがこれがめちゃくちゃ重くて大変なんですよ。この写真は1981年のうちのクラスのもので、看板に手をかけて帽子をかぶっているのがパーカッションの深沢克彦君(現在、すみや富士本町店勤務)で、一人おいて、向かって右隣がユーホの佐野香津枝さん、看板の左が私、一人おいて向かって左隣がパーカッションの日吉奈美さん。流石ブラバン、根性で登り切り、しっかり前列に陣取って写っている。

 この時泊まっていた「板屋旅館」(高原教室では常宿でした)は、翌年火事で全焼してしまうんですね。何年後かに再建されたという話ですが。このニュースはショックでした。

 当時、部史編纂室長は、東京で大学生をしていましたが、「イタヤガヤケタ(板屋が焼けた ※ 回文ではありません)」というニュースは、一大センセーション?として、私たちの間にも広がりました。残念ながら私には、板屋の記憶は断片的にしか残っていません。なんか妙に廊下で迷子になりやすかった事くらいしか・・・。

by 宮川 真人

吹奏楽コンクール

 常葉一雄氏(28回卒)の指導、指揮により緊張感のある作品に仕上がり、大編成としては初の県大会出場を果たした。OBバンドも昨年の好評に味を占めて再び出場、「エルザの大聖堂への行進」を演奏したが出来はボロクソで、これ以降OBバンドが世に出ることはなかった。

 昭和57年度

現役時代の思い出 volume.3  

 3年の富嶽祭では、トリの曲の決定にぎりぎりまで時間がかかり、ようやく「オセロ」に決まりました。今考えると、大曲なので無謀とも言えましたが、まあ富嶽祭というのは定演やコンクールと違って、基本的にやりたい曲をやればいいのだと思います。それより1部のトリの「シンフォニア・ノビリッシマ」でハプニングが発生しました。エンディングで一人のホルンが、思いっきりフォルテッシモで飛び出してしまったのです。しかも音程のない音で。富士宮四中出身の彼(というわけで男です)はその後、私と同じM音楽大学に進学することになるのですが・・・大学生になって、ある時友達にこの時の録音を聴かせたことがありました。友達たちは「もう1回!もう1回!」とリプレイを何度も懇願し、死ぬほど笑いころげていました。本人同席の上、余りにも何回も聴くので最後には少々ムッとされましたけどね。この時の録音もレコードとして残っています。アップしたいのはやまやまですが、どうしましょう。大丈夫かな、もう時効だし、私のソロも下手クソなので、お互い様ということで許してもらいましょう。ちなみに彼が私の”もも”というあだ名が、ようやく高校時代で終わろうとしていたものを大学にまで広めた張本人。今や業界にまで浸透しています。

 3年間を通して「富士高体操」には燃えましたね。最初はパーカッションの杉山佳史先輩(吉原一中出身、現在、富士根南中学校教員、吹奏楽部顧問)やユーホの渡辺伸司先輩から薫陶を受けました。これをきっかけに私の中で何かがはじけたような気がします。その後の人間形成に多大な影響があったのは言うまでもありません。2年、3年では後輩達の指導にも熱心でしたし、3年になってからも率先して”プレイ”してました。熟練の演技とか言われておだてられて。自分でピアノを弾いて伴奏を録音し、富嶽祭や遠足の時なんかに使っていました。(ヨーイ!という声は父親に叫んでもらって録音)遠足では下の学年から順にやっていって、満を持して我々が登場するのが何とも快感でしたね。
 それから先生の物まねもよくやっていました。(英語のU城先生、世界史のK山先生、地理のM澤先生など)確か3年の富嶽祭での劇の時にも、ちょっとした不手際があり、間を持たせるためにとっさにやったような記憶があります。その日の反省会で、先輩に物まねをやらせるなんて、と問題になり、責任を感じた後輩達が泣き出したりして、今考えると他愛もないことなんですが、その時はそれほど一生懸命だったのですなあ。
 野球応援にも3年まで行っていました。青いTシャツ着て、補講をさぼってブラバンバスに紛れて乗って球場へ行き、2メートルぐらいある巨大メガホンを作って応援していました。この年は県大会の決勝で、静高に破れ涙をのみました。県大会を通じて巨大メガホン応援は話題になっていたので、テレビに大写しになり、先生にばれてひどく怒られました。
 あとは、”いななき自転車”も流行りましたね。駐輪所の鉄骨に友達の自転車のハンドルやサドル、ペダルを引っかけて吊すのです。いかに人より先に行って面白く吊すかを競い合っていましたね。エスカレートして来たときなんか、練習が終わったらまず吊しに行くんですよ。何くわぬ顔で青雲寮に戻り、その友達に「帰ろうぜ」って行って一緒に駐輪場に行って、そいつが「あー、いなないてるー!」って叫ぶのが面白くて。やったりやられたりだったんですが。その他、樹木に吊されることもあったし、プールに沈められていることさえあった。
 ”高柳”の焼きそばは、卒業してからつい最近まで折に触れて食べに行っていました。いつか自分で稼げるようになったら、肉入り大盛り(卵入りもあり)を食べてやろうと思っていました。あの醤油みたいなソースの味が懐かしいですなあ。これは完璧C級グルメですね。同級生のトロンボーンの加藤節雄君(岳陽中出身、彼も初心者だったため1年生の時コンクールには出させてもらえなかった)とひとつ下のバリサクの池田将章君(四中出身、現在富士東高校教諭。吹奏楽部顧問)の二人が辛さで競い合い、唐辛子の瓶丸1本分(もしかしたら店中だったかな)を使い切ったのも凄かった。おでんの串を床に落として勘定をごまかしたこともありました。
 最後にひとつ。トロンボーン部屋の木の格子の隙間をくぐり抜け、外に出られたのは私が最初でした。格子にその日の日付と名前を書いた記憶があります。その後何人かが成功しています。

by 宮川 真人(昭和57年度卒、オーボエ)

 昭和58年度

吹奏楽コンクール

2年振りに常葉一雄氏(28回卒)が指導、指揮を執った。現役学生の演奏技術の高さもあったが、短期間に驚くべき成長を遂げ、大会当日も何かに取り憑かれたかのような鬼気迫る演奏。 自由曲の採点では富士見高校をも凌ぐ高得点で県大会出場を果たし、県下にその名を轟かせた。同年の定期演奏会に東海大一高吹奏楽部がバスをチャーターして観に来たという信じられないエピソードも残っている。

泉岳寺の涙チョチョ切れ日記 vol.1  
 当時1年生だった僕はアンティフォナーレでシンバルを担当しました。この曲のシンバルはアタマから160小節くらいずーっと休んだ後、バンドの音が全員無くなったところに一人だけ「しょわ〜ん!」と音を出さなければいけないのです。
 「その一発が大事だ!」と指揮者の常葉先輩に力強く言われ、気合いを入れて臨みましたが、初心者で入部した僕の力量では、なかなか「その一発」が満足行くモノになりません。「早い!」「遅い!」「音が悪い!」、、、これではアカン、修行が足りんと思った僕の最終手段は、、、「家にシンバルを持ち帰って個人練習」でした。
 近所から苦情が来てはいけないので、真夏のさなかに自室の雨戸を全て閉めきり、「ぐわっしゃぁ〜ん!」。何事が起こったかと部屋に飛び込んでくる親をジャマだと叩き出し、「ぐわっしゃぁ〜ん!」、、、おかげで本番は何とかハズさない程度には出来ましたが、家族の間ではこのシンバル話はいまだに酒の席の話題の一つになっています。

by 泉岳寺

吹奏楽フェスティバル

 ご存じベニーグッドマンの超難曲をあまりにも完璧に演奏し、当時のOB達の度肝を抜いた。そして、今もって富士高史上最高の名演と語り継がれている。「一体、どれほどの演奏だったのか?」と問われれば、答え難いのが生演奏なのだが、何と言うか、まさにバンドがスイングし、ホール全体を巻き込んでグルーヴしていた。私たちは終始、痺れっ放しだったんです・・・。う〜ん、あれは凄かったよね。

泉岳寺の涙チョチョ切れ日記 vol.2  
 吹奏楽部がジャズのビッグバンドになる!
 もともと「大きな音でドラムが叩ける」と思って入部した僕にはとても嬉しい話です。が、Percって意外と人が余っちゃうんですよね、こういう曲。で、当時から個人的にロックバンドをやっていた僕は「この曲ではエレキベースを弾く!」となりました。パート練習は「ベースだから」という事で、チューバ&ユーホに混ぜて貰ってやりましたが、、、やっぱりエレキとチューバじゃ、やはりちょっとフレーズが違うんです。オマケに「これはポップスである。楽譜のアレンジがショボかったら、自分でカッコ良く変えて構わないのである。」と信じて疑わなかった僕は、プロのビッグバンドの演奏を聴いて、「お、これ良い!」とか勝手に自分のフレーズを変更。
 それに触発されたか対抗意識を燃やしたか(^_^;、同期のチューバ吹きが新たなフレーズやチューバの楽譜には無いフレーズを導入、、、先輩方のメーワクそうな顔が今も思い出されます、、、。

by 泉岳寺

 昭和59年度

吹奏楽フェスティバル

泉岳寺の涙チョチョ切れ日記 vol.3  
 愛するデュークはドラムソロがいっぱいある曲です。途中、ドラム→全体→ドラム→全体→、、、と1小節おきにソロをやる所があるのですが、、、その3回目、僕は、、、ソロの最中にスティックを落としました!
 すぐ足元に落ちているのは見えていたので、それを拾いつつ、片手シンバルとバスドラのみで4回目のソロをゴマカシて、何とか止まらずに乗り切れたのですが、当時の音源を聞くと、会場に驚きとも笑いとも恐怖とも何ともわからぬ、不思議な「はぅぁあっ!」というお客さん達の声が入っています。(^_^;
 しかし一番キモを冷やしたのは、最も間近でその姿を見ていた(演奏者はみんな逆向いてるから)指揮者であったことでしょう、、、。

by 泉岳寺

HIGH VOLTAGE TOUR

 この年、OB会では伝説の団体旅行「HIGH VOLTAGE TOUR」が開催された。「天下無敵」をテーマに開催した第1回目は伊豆の土肥温泉。夏休みを利用しての旅行で、9代に亘るOB約30名が参加。事前準備の緻密さと当日のメンバーの弾け方は異常としか表現しようがなく、あまりにもクレイジーなエピソードは今もなお語り草となっている。

 昭和60年度

3年間の想い出

 毎日が、とっても充実していました。パートも仲良しで、よく練習しました。一つ上のりえ先輩、一杉先輩、同学年の、中沢君、藤田君、一つ下の、はねちゃん、瀧君、連絡を取り合っている人もいるけど、みんな元気かなあ。あのころ、富士高吹奏楽部のメンバーであることが私の心の支えであり誇りでした。
 1年生、富嶽祭の椅子配置に燃えました。青雲寮から椅子を4個から6個も一辺に持って走ったっけ。ストップウオッチの数字と戦いながらいかに早く配置をすませるか、必死でした。3年の先輩方のラストステージをドアの外で涙しながら聞いたのも思い出です。コンクールではアンティフォナーレで県大会に行けて最高の思い出になりました。
 2年生、コンクール、フェスティバル、アンサンブルコンテスト、 定演と盛りだくさん。毎日部活にどっぷりつかっていました。定演のプログラムに載せる広告取りにも奔走しました。楽しかったなあ。
 3年生、富嶽祭の大とりは「火の鳥」。やっぱりちょっと無謀だったかな。完全燃焼しきれずに泣きました。そういえば富嶽祭の後の写真は毎回泣き顔かも。おまけの思い出は、、、なんといっても「つばぞうきん洗い」。春も夏も秋も冬も、暑い日も、寒い日も、水が冷たくて手が切れそうな日も、毎日毎日欠かさずパート分の雑巾を洗ったっけ。洗濯のお供はいつもチャーミーグリーンでした。

by 西尾 敦子

富嶽祭打ち上げに招かざる客

 昭和60年、富嶽祭の打ち上げの2次会を「味楽」で行っていたところ、急に、先生方のガサ入れがあり、「明日、今いる者の名簿を出せ」といって去っていきました。たぶん、そのままうやむやになったと思うのですが・・・。

by 宇佐美 俊宏

HIGH VOLTAGE TOUR

 「天下無敵」に加えて「超絶」をテーマに開催した第2回目は伊豆下田の田牛海岸を舞台に、第1回より更にパワーアップした大馬鹿野郎どもぶりを披露。後に地元の人々の間で「変な揃いのTシャツを着たおかしな集団が暴れ回っていった」という噂が(本当に)流れたらしい。
 海(フェリー)から攻めた第1回目から、バスチャーターに変わり、かつての新歓バス遠足を再現、折しも日航機墜落事故(御巣鷹山)の直後で、九ちゃん追悼のセレモニーがしめやか(クレイジー?)に執り行われ、狂乱ツアーの幕開けとなった。
 日程も2泊3日にバージョンアップ、サンドスキーや「ゴジラが出たぞ」ごっこ、本当の自殺名所スポットを会場にした(マジコワ)肝試しなど、目の前で水難事故による死亡者が出たというのに、全くお構いなしの神をも畏れぬ不謹慎ぶりで、もうゲップが出るほど馬鹿やってきました。ぐったり・・・。
 それにしても、これほど散々馬鹿騒ぎしてきたにも関わらず、帰ってきたその足で打ち上げ(しかもエンドレス)に突入するんだから、当時は若かったとゆーか、パワーあったよね・・・。

1985 コンクールの思い出  

 昭和60年(1985年)私が大学3年の時にコンクールを振って、県大会に出場することができました。
 昭和56年、58年以来、大編成では3回目のことでした。ラスト10日余りの、突貫工事だったように思いますが、大学生だった私は大いに勉強になりました。そして良い経験をさせてもらいました。
 県大会の前日、日航機墜落事故がありました。練習帰りに、いつもは聞かない飛行機の音を聴いたのを憶えています。
 添付した音源のデータ(県大会)は次の通りです。

               (近日公開?)

by 宮川 真人

フェスティバルの終焉?

吹奏楽フェスティバル消滅の真相が、遂に明らかになった・・・!?
 昭和60年度の第17回フェスティバルでは、一校あたり、確か9分以内で演奏を終わらなければならないところを、みんなで検討した結果、「やっちまえ〜〜〜!」ということで、3曲ともフルに演奏して大顰蹙。(会場は盛り上がってましたが・・・)
 当時2年の部長だった滝俊二先輩と、1年の部長だった私が終了後に呼び出され、「富士高がこんなことじゃダメじゃないか!!!」と説教を食らう羽目になりました。そのことと因果関係があるかどうかは定かではありませんが、翌年からフェスティバルはなくなりました。
 このフェスティバルの当日、同期の薩美が風邪で姿を見せなかったため、みんなが昼飯を食ってる間にトロンボーンの皆さんは、文化センター横の公園で急遽パート換えの練習をしたのがやけに印象に残っています。
 ちなみに私は何人かの先輩と、すみやの近くの「ちゃらく」に昼飯を食いに行ったのですが、トーストを注文したところ、オヤジさんがパンを買いに出かけたまま戻らなくなり、危うく出演の時間に間に合わなくなるところでした。

by 宇佐美 俊宏

元旦サッカー第10回記念大会

 「ワコールブラジャーズ」vs「グンゼパンティーズ」の死闘も遂に10年の長期化。 記念大会に向けてOBチームは揃いのユニフォーム(清水東高と同じプーマのブルー)を新調、レギュラーナンバーの争奪戦も熾烈を極めました。

 昭和61年度

モンロの日々 〜 Days of Monroe 〜  

 演奏会やイベントの後は、何かというと「打ち上げ」・・・その舞台となったのは、富士本町を中心とした喫茶店やレストランでした。中でも駅前の「モンロ」は代表的なメッカ。この思い出深い第2のステージについて語って頂きました。

 昭和60年度、「富士見ランド」に行った遠足の後、わがユーホ・チューバは富士駅前のモンロに出かけ、同期の古田がドリームパフェを5分で平らげ、拍手喝采を浴びました。
 昭和61年度の春の遠足の時も、ユーホ・チューバはモンロに赴き、1期下の赤池(光博)がドリームパフェを3分30秒で平らげ新記録を打ち立てましたが、喜びもつかの間、フルートの渡辺が3分15秒で食べ、あっという間に記録を打ち破られました。
 ちなみに赤池は、この年の富嶽祭で3分5秒で再度新記録を出しましたが、このときに盛り上がりすぎて店内の大きな植木をひっくり返してしまい、以来、モンロには入れてもらえなくなりました。

by 宇佐美 俊宏

HIGH VOLTAGE TOUR

 テーマは「旬」・・・。第3回ハイボルは西伊豆松崎の大浜海岸に会場を移した。いつもながらの念入りな事前取材により、雑誌風旅のしおり「ぼるてえじ」も、ボリュームアップして発行した。
 フェリー、バスに代わって第3回はメンバーの自動車に乗り合わせてアプローチ。が、ただでは済まないのがハイボル。西伊豆ラリーカーニバルと銘打ち、集合場所でもある富士市役所から、時間差をつけて順々にスタート、その場で配布した地図を頼りにそれぞれがゴールを目指した。優勝は、ハチロクトレノを駆る大村日出生、斉藤美智子、渡辺陽子チーム。優勝者への特典は・・・何だったかな?・・・忘れた。
 既に定番となったゲーム等はもちろん、大仏魂参拝ツアー、タイムカプセル埋設など新企画も盛り沢山でした。そういえばあのタイムカプセル、2001年に開く予定になってたけど・・・。

 平成4年度

コンクール

 僕の世代がジプシー初代に当たると思います(3年度入学5年度卒)いわゆる青雲寮見たこと無い世代ですが。色々大変な事(雛壇作りとかかな?^^;)もあったような気がしますが。楽しかったことしか覚えてません ヽ(´ー`)ノ
 一番心に残ってるのというと..やはり復活コンクール金賞は嬉しかったですね。

by 大竹 承平

 復刻版! ボントロ部屋壁画 (おまけ)

情報提供ありました!

 壁画の作者である佐野壮一氏からメールを頂きました。実は、佐野氏が描いた事実は伝承により存じておりましたが、ご本人の弁によると、実物は「グレンダイザー」ではなく「グレートマジンガー」だったそうです。これは完全に担当者の記憶違いでした。だとすると、↓こんな感じ?

 余談ですが、青雲寮内には至る所に「単なるイタズラ書き」では片付けられない作品の数々が彩られておりました。S50頃には、上で紹介したグレートマジンガーや、トイレの小便器を口に見立てた顔(お下品だなぁ・・・)など。そしてS55〜60年頃にはSax部屋の内壁や扉に、鈴木英人を思わせるリゾートチックな作品もお目見えしました。あの作者は確か「ちゃーしゅー」だったかな?

 

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